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第111話 雨の日、あの夏の続き

مؤلف: 藤永ゆいか
last update تاريخ النشر: 2026-10-24 20:00:00

あの日感じた、理由のわからない胸のざわめきは、数日経っても消えなかった。

誠一郎さんの定期通院に付き添うのは、いつからか、私の習慣になっていた。

誠一郎さんの庭で、初めて二人きりで話した日以来、月に一度ほど、こうして時間を作るようになっていた。

その日、柊さんは急な会議が入り、来られなくなった。

「一人で大丈夫か」

心配そうに聞く柊さんに、「平気です」と笑って答えた。

むしろ、誠一郎さんと二人きりで過ごす時間は、これまでも何度かあり、居心地の良いものだった。

◇

病院までの道のりは、穏やかだった。診察も、これといった問題もなく終わり、二人で帰路についた。

病院を出てしばらく歩いたところで、空模様が急に変わった。

灰色の雲が、頭上を覆っていく。あっという間に、大粒の雨が降り始めた。

「傘、持ってきていませんでしたね」

「参りましたね」

誠一郎さんと顔を見合わせ、近くの建物の軒先に駆け込んだ。古い商店の、

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  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第111話 雨の日、あの夏の続き

    あの日感じた、理由のわからない胸のざわめきは、数日経っても消えなかった。誠一郎さんの定期通院に付き添うのは、いつからか、私の習慣になっていた。誠一郎さんの庭で、初めて二人きりで話した日以来、月に一度ほど、こうして時間を作るようになっていた。その日、柊さんは急な会議が入り、来られなくなった。「一人で大丈夫か」心配そうに聞く柊さんに、「平気です」と笑って答えた。むしろ、誠一郎さんと二人きりで過ごす時間は、これまでも何度かあり、居心地の良いものだった。◇病院までの道のりは、穏やかだった。診察も、これといった問題もなく終わり、二人で帰路についた。病院を出てしばらく歩いたところで、空模様が急に変わった。灰色の雲が、頭上を覆っていく。あっという間に、大粒の雨が降り始めた。「傘、持ってきていませんでしたね」「参りましたね」誠一郎さんと顔を見合わせ、近くの建物の軒先に駆け込んだ。古い商店の、庇の深い軒下だった。雨脚は、みるみる強くなっていった。◇軒先に立ち、雨が地面を叩く音を聞いていた。湿った石畳の匂いが、鼻の奥に広がる。冷たい空気の中に、土と雨とアスファルトの入り混じった、独特の匂いがあった。隣に立つ、誠一郎さんの気配。杖を持つ手、規則正しい呼吸、時折漏れる小さな咳払い。その一つ一つが、何か遠い記憶を、静かに揺さぶっているような気がした。理由は分からなかった。ただ、この光景に、既視感があった。その時だった。少し先の歩道で、傘を差した高齢の男性が、濡れた地面に足を取られて、大きくよろめいた。考えるより先に、私は体が動いていた。「危ない──!」駆け寄り、倒れ込みそうになる男性の体を、両腕で支えた。「大丈夫ですか!?」声をかけながら、私は男性の腕をしっかりと支え続けた。その時、ふと、自分の左手が、無意識に薬指を握りしめていることに気づいた。

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    『大事な話がある』そのメッセージを受け取ってから、週末までの数日間、落ち着かない気持ちのまま過ごした。何を言われるのか、頭の中で何度も想像した。仕事のことだろうか、それとも父親のことだろうか。考えても答えは出ず、ただ、その日を待つしかなかった。◇約束の土曜日。柊さんが迎えに来て、車に乗り込んだ。行き先を聞いても、「着いてからのお楽しみだ」とだけ返された。静かに走り続けた車が止まったのは、見覚えのある通りだった。「ここ……」「覚えているか」「はい」南青山のイタリアンレストランの前──柊さんと二度目の食事をした夜、雨の中で傘を差し出してくれた、あの道だった。今夜は、澄み渡るような冬の空が広がっていた。あの日と同じように歩道は続いているのに、地面には濡れた跡一つない。「あの日は、雨でしたね」「ああ」「今日は、晴れてます」「そうだな」短いやり取りだったけれど、それだけで、あの日から二人で重ねてきた時間が、静かに胸に込み上げてきた。◇車を降りて、並んでゆっくりと歩いた。街灯の明かりが、二人の影を長く伸ばしている。冬の夜気は冷たかったけれど、隣にある体温のおかげで、少しも寒く感じなかった。しばらく歩いたところで、柊さんがふと足を止めた。「柚葉さん」「はい」振り返ると、柊さんが真っ直ぐこちらを見ていた。いつもの冷静な表情の奥に、隠しきれない緊張が見えた。「俺と、結婚してほしい」シンプルな言葉だった。飾りも、引き延ばす前置きもない、まっすぐな一言。「……っ」息が、止まりそうになった。これまでのすべてが、頭の中を駆け巡った。姉の身代わりで臨んだ、あのお見合い。嘘をつき続けた日々。本当の自分を取り戻していっ

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第107話 凪いだ時間、そして次の季節へ

    一月の第二週、東京は本格的な冬を迎えていた。窓の外では、冷たい風が街路樹の枝を揺らしていた。それでも、部屋の中は、暖房の温もりと、静かな安心感で満ちていた。柊さんの部屋で過ごす夜が、以前よりも穏やかになっていた。父との一件、雅人との一件、これまで積み重なっていた緊張が、一つずつ解けていくのを、肌で感じていた。ソファに並んで座り、特に何をするでもなく、静かな時間を過ごしていた時だった。テレビもつけず、スマホも開かず、ただ隣にいるだけの時間。以前なら、こんな何もない時間を、少し落ち着かなく感じていたかもしれない。今は、その何もなさが心地よかった。「もう、誰にも邪魔されない気がします」思わず、そうこぼした。「そうだな」柊さんが、短くそう答えた。それから珍しく、私の頭に、そっと手を置いた。大きな手のひらの重みと温もりに、体の力が抜けていくのが分かった。言葉ではなく、こうした仕草で気持ちを伝えてくれることが、この人らしいと思った。「柊さんも、少しは楽になりましたか」「……そうだな。以前より、肩の荷が軽い」素直な答えだった。以前の柊さんなら、こんな風に自分の内面を、まっすぐ言葉にすることは少なかった。「父のことは、まだ何もかも解決したわけじゃない。でも、少なくとも、目を逸らさなくてよくなった」「それだけで、十分な変化だと思います」「かもしれない」◇数日後。仕事帰り、駅で偶然、城島さんと会った。「西園寺さん、お久しぶりです」「城島さん。今日はお仕事ですか」「ええ、少し外回りで」改札を出たところで、立ち話になった。師走の慌ただしさが過ぎ、駅前には正月らしい静けさがまだ残っていた。自然と、この数ヶ月の専務とのことが話題に上った。「これで社長は、全部一人で背負わなくてよくなりましたね」城島さんが、しみじみとした口

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第106話 時間をかけて

    柊さんのお父様との対峙から、数日が経っていた。柊さんの様子に、大きな変化はなかった。ただ、以前より少しだけ、父親の話をするようになっていた。「今日、父から連絡があった」夕食の席で、ぽつりとそう言うことが増えた。内容は事務的なものが多かったけれど、それでも、話題に出すこと自体が、以前とは違っていた。「どんな連絡ですか」「地方ホテル事業の件で、進捗の報告があった」一度だけ、柊さんが、あの対峙の夜のことを、少しだけ話してくれたことがあった。「あの日、少しだけ、声を荒らげてしまった」「柊さんが、ですか?信じられない」「らしくない、と自分でも思う」その一言に、驚きと、それ以上の安堵があった。この人がずっと抑え込んできた感情を、少しでも吐き出せたのなら、それは前進のはずだった。◇柊さんから詳しく話を聞いたのは、それから数週間ほど経った頃だった。地方ホテル事業の再建策を、柊さんが正式に提示したこと。黒瀬の名前も、父親の口利きも使わず、コンサルタントの導入と、段階的な事業整理を進めていること。「時間はかかる。でも、確実に立て直せる道筋だ」そう語る柊さんの声に、以前のような刺々しさはなかった。「打ち合わせの席で、父が一度だけ聞いてきた。『なぜ、ここまでしてくれる』と」「何て、答えたんですか?」「あなたのためじゃない、と」柊さんが、続けた。「これで区切りをつけたいのは、俺自身のためだ、と言った」その答え方が、いかにも柊さんらしかった。優しさを、優しさのままでは差し出せない人。それでも、行動でちゃんと示してくれる人。「あの縁談の話は……」「正式に撤回された。取引先への支援打ち切りという話も、二度と出ていない」その一言に、ようやく大きな棘が抜けたような気がした。◇年が明けて間もない、一月の初め。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第1話 姉の身代わり

    「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第5話 鳴らないはずの電話

    一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第4話 終わったはずが

    『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第3話 見透かされる嘘

    それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感

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